2019年12月27日金曜日

First chapter


First chapter


まず、留学生活を振り返る前に、
自分の性格上だけど、
あんまりヒト・モノ・コトへの執着心が大人になった今でも
そうだけど昔から無い。

”失恋しても全然翌日にはケロってしてる”
”怒られても寝れば忘れる”
”あんまり過去に依存もしない”etc

数えたら切りが無いけど自分自身の長所でもあり短所でもある
”執着心の欠如”だが、
”イギリスで美容師をしたい”って気持ちは、
正直ここ5,6年ぐらいずっと想っていた。

「はい。どうぞ。イギリス行きの切符です」
って簡単に行けるものでは無く
海外で仕事をする・生活をするにはVisaが必要である。
他国なら簡単に取れるワーキングホリデーのVisaも
イギリスには例外的に毎年1月・7月の抽選で
無条件に年間1000名しか選ばれない。
平たく言えば一発で当選する人もいれば、
落ち続けて年齢制限の30歳を迎える人もいる。

このVisaの応募に僕は2018年7月まで通算で6回落ち続けた。
正直、もう定例行事みたいな感覚で”とりあえず送ってみますか。”
最後あたりはそんな気持ちだった。
だけど、心の奥底には
「何が何でも行きたい!イギリスで生活したい!」って思いだった。
そして、2018年7月の抽選で積年の思いが叶いVisaの権利を得た。

不思議とめちゃめちゃ喜んだわけでも
誰かに知らせただけでもなく
スポーツ選手の完全燃焼したかの如く
誰にも言わず、頭の中には
「やべぇ。貯金してない。」
「英語忘れてる。」
「本当に行けるのか?」みたいな
前向きなものでもなく、余計なものが浮かんできていた。

とりあえず、
この最大の不安因子”お金が無い”を
解決するべく本業の終わりに
この世の底辺かって言えば語弊があるけど
配送業者の工場で深夜帯で週3回アルバイトをしながら
昼も夜も働く。そんな生活が始まった。

”自分のことは自分でする”
自分が生まれた環境は、そんな場所だから
小さい時からある程度のことは標準機能ですってぐらいに身についており
こんな生活も苦労するものではなく、
「4月になれば絶対に最高の状態になっている」って言い聞かせながら
そんな生活を半年近く続けた。

それと並行してイギリス行きの切符を確かなものにするために
必要な手続きも進めていった。
オーストラリア留学時代にお世話になったエージェントに
今回もお世話になった。

英字の残高証明
英国の国保の加入
20ページぐらいに及ぶ書類にサイン
Visaセンターに行って在留証明書手続き
その他諸々

国が違えどこんなにもやることがあるのは予想外だった。
思い出しても頭がパンクするほどの手続きを済ませて
年内に全ての申請もパスして留学することが最終決定した。

”誰にも知らせていない”は、実はそうではなく
一番最初に知らせたのは親でも兄姉でもなく
ずっと定期的に強制的とかでなく
ふとお互いにタイミング良くご飯でも行く友達だった。

「イギリスに4月から行くことになりました」

そんな言葉を言った帰り道に
『こうやって定期的に行って呑みに行った後の締めは
カフェで甘ったるいドリンクとケーキを食べることも無くなるのか”
って思うと自分には珍しく感傷的になった。

そこからは、特に自分から言わずに
何となく聞かれたら
「4月から行くよ」ぐらいのフランクな感じで伝えた。
こう書くと凄く冷たく感じるけど…
もう何年も付き合ってる友人だからこそ
またもし戻ってきても今までと同じようになれるだろうってワガママな思いがあった。

それに、
長く付き合ってる友人やその他の人も分かるかと思うけど
かなり性格に難のある人間なので
”人に気を使わすのが本当に嫌”っていう
その人の優しさを否定するのでなく
”本当に(こんな自分に労力・時間をかけさせてしまって)すみません”
って何か思ってしまうのであえて言わないままになってしまった。

でも、やっぱり長年付き合ってるし
そういう隠し事までは無いけどだいたいバレる。

そして年が明けてからは、
月を重ねれば重ねるほどに忙しさも比例して
今、はっきり思い出すのも難しいぐらいに多忙を極めた。
正直、朝から朝まで働いていれば体もボロボロだった。
”4月からイギリスに行くのか?お前”って
想像もできないぐらいに体は悲鳴をあげていた。
ただ、ようやく貯金は貯まって
それだけが僕の精神安定剤になってくれたのは間違いなかった。

そして本当は、一番に伝えないと行けなかった人には
3月に入ってから自分の口から伝えた。
ただ一言「がんばりなさい」それだけだった。

正直、3月になっても心のモヤモヤってものは
全く消えることも無く成功するイメージの一欠片も無かった。
根っこの部分が心配症の偽善野郎なんで
こんな人生最大の転換点を迎えるにもかかわらず露呈してしまった。

そんな自分に3月中旬に鈍痛かのように
ICHIROの引退のニュースが飛び込んできた。
深夜のNEWS番組を心に出来た鈍痛を抱えながら
ボォって一人暮らしを始めた時から使っている
9年戦士のソファーに
空っぽになった体を支えてもらいながら
マスコミ嫌いのICHIROの最後の会見。
どんな言葉が出てくるのかって思いながら見ていた。

「メジャーリーグに挑戦するということは、大変な勇気だと思うんですけど、
でも成功、ここではあえて成功と表現しますけど、成功すると思うからやってみたい。
それができないと思うから行かないという判断基準では、後悔をうむだろうなと思います。
できると思うから挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい。
その時にどんな結果が出ようとも後悔はないと思うんですよね。」

今までのモヤモヤが、完全に無くなり
平均体温35度の低体温の執着心も無ければ
日常で野心でメラメラになることも無い
ICHIROと人間的に比べたら足の爪先ぐらいの自分だけど
この言葉が言うまでも無くから今の今も心の支えになっている。

もういよいよだよっていう4月に
こんな性格難あり偽善野郎にも関わらず送別会であったり
2年も別れるんだしご飯でも行こうって誘ってくれる友人。














”応援してくれる人がいること。”















それは、何にも変えがたいって心から思えた。
今までどんなことに対しても矢印が、
『誰か』では無く、『自分』に向いてる人間だから
そんな応援してくれる友人・周りの人のありがたさに
「今まで何やってんねん。自分」って…。

もう、日本を離れる日が目前に迫ってきた
歓迎会で盛り上がる金曜日の夜。
梅田・東通りの外れにある小汚い
ある意味哀愁のある鉄板焼きで友人と最後にご飯を食べに行った。

「今からの時代は、信用が価値になる」

どんな話でその言葉に行き着いたのか、
今になっては分からないけど
この言葉によって留学生活が大きく変わるなんて
お酒の入った自分には思いもしなかった。



ただ、いつもこの友人の言葉は突き刺さるものがどこかにある。



そして…4月15日。
夜明け前の誰も動いていない時間。
18歳になるまでこんな何も無い駅前ぐらいしか遊ぶところの無い
神戸の陸の離小島みたいな面白味も無い街に
また20代中盤に戻ってくるとは思いもしなかったけど
まさか、出ていく今になって思わず「いい街だな」なんて思い関空へ向かった。

空港に向かうに連れて自分の根っこの”心配症偽善野郎”の”心配症”が
『待ってました!』って張り切るかのように出てきた。
やっぱり、今から戻って山の中にでも2年間引きこもってしまおうかなって
今では、笑い話だけど思うぐらいに28年で経験したことの無い気持ちに襲われながら
そんな気持ちとは裏腹に空港バスはいつもの倍のスピードに感じるぐらいに
どんどん阪神間の湾岸を進んで空港に着いた。

いつもの別に強制的に”会う会わない。”では無いけど
”なんとなく会う”そんな友人が空港に来てくれた。
不安な気持ちをどこかに蹴飛ばすように
いつもの関係のままに最後の日本での食事が、
世界でもほぼ共通の味”朝マック”をチョイスするのも
長い付き合いの賜?
それさえも別に特別じゃなくていい。
どうでも良いかって思えるのは
”なんとなく会う”って関係性に集約されてる思った。

いつも通りに。
『では、またね』っていつも通りに
最後に手を振った時は、




柄にも無いけど目に光るものがあった。

















小野寺奨 個人HP  ただの表現の場所 LINE:@tsutomu1201jp mail:tsutomu1201jp@gmail.com

0 件のコメント:

コメントを投稿